ぽえ犬通信 vol.20
ココルームが2月10日付で発行したぽえ犬通信から私の文章をそのまま転載
1月23日 役に立つ仕事 ある人が「職業選択論」で社会の役にたつ仕事をしたいと書いた。 社会に役に立つ仕事とはなんだろうか、公共に奉仕すべき役人のことであろうか、それとも人の生命をあずかる医者だろうか、そう考えていくと、社会に役に立たない仕事などないはずだと考えることとなった。 全てのことは有機的に絡み合い社会を構成している。役に立たない仕事などないはずだ。明治維新以来、職業に貴賎はないと言われていたではないか。 でも常套句の様に言われている言葉がある。道路で掘削している人々を指差し、子供に親が言う「勉強しないと、あんな風になっちゃうよ」 勉強できないと肉体労働しかできない、勉強して有名大学に行き一流企業に就職しなさいと言っているのだ。社会的評価が高い職業につくためにと学校教育を受けてきた。 職業に貴賎はないと言われながら、職業の社会的評価に貴賎ではなけれど高低はあるのだ、その社会的高低に伴い賃金にも高低がある。逆に賃金の、つまり年収により社会的評価がされている面が大きい。 でもそんなことより好きな仕事好きな職場が見つかれば社会的にどう受け取られようとかまわないと思う。 1月25日 詩の学校に行く 詩の学校に久しぶりに行く。上田仮奈代さんが大阪應典院で月二回、水曜日夜7時半から2時間行なっている学校だ。 自転車で行く應典院あたり下寺町は街灯は暗く人通りも少ない。應典院に入れば照明は暗く、ただ一人私より先にいた人は自分の主催する催しに客が来ないと佇む淋しい人であった。 私も淋しい気分になって他の人が誰も来ないことを想像した。上田さんと私だけで詩の学校をやっているのをチラッと想像してほくそ笑んでいた。 定刻ぎりぎりに常連の某氏が友達と二人連れで来た。結局その日は、終了30分前に来た人を入れて男ばかり6人が参加した。 上田さんの話の後、著名詩人の詩を二人組みになり朗読して聞かし合う。 その後にお題を決めて40分位で詩を作ることになる。出来た作品を作者が朗読し、上田さんの講評をもらい。終了するのだ。詩を創ることと共に朗読することについても学ぶ学校である。 その日のお題は「きく」。聞くでも聴くでも、菊でも良いとのこと。 何時もは詩を作ろうと思ってもなかなかできないのだが、この学校ではどうにか詩ができてしまう。 こんな詩ができた。 うんうんとう うんうんとうなずきながら聞いていた 長い話だ、いつものぐちである 私はうんうんとうなずくだけだが 話はどんどん展開し 落ちがついた 最後に私はうんうんと答えた ( 略 ) うんうんとうんことぐろをまいて便器から顔をだす 水を流しても流れない 早く出てょと娘が言うのを聞いたので トイレットペーパーをまとめてうんこを押して排水口に流した うん~こ流れた排水口におちた 1月28日 仕事に行かない 今日はそんな寒くない、昨晩風が吹いていたのを思えば、うす雲はあるが気持ちの良い日である。昨日は寒気が来ていたので午前中から映画館にもぐりこんでしまった。 今年に入って13日から16日まで東京に詩の朗読のイベントを見るために行ってきた。代々木公園の野宿小屋に泊めてもらったが、ありがたいことにそこで一日朗読会を開いてもらった。 その東京行きの旅費は12月の北陸遠征の時に使った青春18切符の残りを使用した。始めは年頭に仕事に行ってそれを資金にしたかったが年頭には一度も仕事に行かなかった。しかしココルームから原稿料の前払いを受け取り、なんとか東京にいけるようになった。 東京から帰ってきて仕事に行かねばならないのだが、まだ仕事に行っていない。12月の仕事の貯金も下ろしきり。いよいよ2・11のイベントの前売券の売り上げに手をつけそうだ。 来週こそ仕事に日雇いの仕事にいかねばならない、いや今週こそと思い、毎晩ねて早朝目が覚めるのだが、仕事に行けていない。米は充分にあるし食べることには不自由しない。人との付き合いがなければ、そのままでも良いのだけれど、風呂には入りたいし小遣いも欲しい。 毎週火曜日には「ほうきぼしプロジェクト」のワークショップがある。車椅子の人を中心に歌をうたっている。これに私も参加している。 また今週から始めたのが毎週月曜日のダンスのワークショツプだ。コンテンポラリーダンスを習い始めたがとてもおもしろい、体を動かすのが嬉しくなる。 年頭の今年の行動予定としては毎週水、木、金曜日に仕事に行き他の日をワークショップに参加したり、創作の時間にするつもりであった。今年に入ってまだ仕事に行っていない。 1月29日 心斎橋筋を歩く 昨晩は夜中の心斎橋筋を二度歩き回った。年頭に作った詩「寝る 私の場合」に肉付けをするためだ。ところが私が心斎橋筋で寝ていた時とだいぶ事情が違う。 心斎橋筋の北外れでは昔は夜遅くなるとアーケードの街灯は消されて暗かった。今は24時過ぎでもこうこうと明るい。 戎橋から川面沿いを歩くテラスができそこに面して観覧車が回る激安の殿堂ドンキホーテが朝5時まで開いている。また戎橋そばにはTUTAYAが24時間営業をしている。 1月30日 野宿者排除 大阪城公園、靭公園の野宿者のテントが行政代執行により排除された。大阪城公園では「全国都市緑化おおさかフェア」があり、靭公園では「世界バラ会議」があり、そのための整備名目で野宿者が追い出された。 私の住む天王寺公園の有料化もイベントの後に行なわれた。関西新空港の開港に合わせ大阪の玄関口の天王寺を綺麗にしようと1987年に天王寺博覧会が行なわれた。その後は公園を囲いこみ有料化された。 何年か前に東京の上野公園で早朝「テントをたたんでください」との放送を聞いた。その後、国立西洋美術館に皇太子夫婦が来たそうだ。 そこのけそこのけ けちらしけとばし ちいさきものちりぢりになる ちらばったちいさきもの あちらこちらに めをだしはをだしえだをはる やがてそこにまた おおおとこはやってくるだろうか 1月31日 ケ・セラセラと生きる 職業訓練校から紹介され町工場で働いていた時期がある。そのときは仕事を覚えてこの工場で将来も働いていこうと思っていたことがあった。 でもそれ以降は貧弱な漠然としたことを抱きながら、アルバイトという感じで働いていた。生活の糧を得るために仕方なく働いていたと言える。牛乳配達、製罐工場、自動車組み立て工場、鋼管結束、レストラン皿洗い、射出成型オペレーター、魚店売り子、ダンボール裁断、等などを転々していた。 その後に寄場を知り、日雇労働をするようになった。主に土木建設、港湾荷役、倉庫荷役等々の肉体労働である。それいらい寄場で日雇労働をして生活してきた。同じ仕事場に毎日通うようなことはなくて、仕事を覚えることはなかった。それ以来その日暮しの生活が続いて現在に到る。 仕事に行くことに強制されることはなかった。だから、しばらく連続して仕事に行くと金がなくなるまで旅をしたり、部屋に閉じこもる生活を続けたりした。 それもこれも『日雇いで一日仕事に行けばその日の飯は食える』という考えがあるからである。ケ・セラセラなるようになるさ、明日は明日の風が吹く。そんな考えで50代のこの歳まで生きてきた。そしてこれからもそんな考えで生きていく。 冷たい雨が降っている、週末はまた寒くなると言う。私の春はなかなかやって来ない。
by juntyandes
| 2006-02-19 02:59
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